面光は伊予の人形師で初代以降、5代の継承がある。初代面光は面師であったが、二代面光義光は人形浄瑠璃芝居にもちいられる木偶制作に情熱を捧げた。 松山市出身で天保2年(1831)生まれ、明治23年(1890)没。59歳。 人形の持つ宿命を頭に強く持って制作したため、非常に個性の強い名作が多いが、現存するものは極めて少なく愛媛県内においてもほとんど見かけない。 この十郎兵衛も阿波の人形師には見られない造形にて、十郎兵衛の気質を余すところなく表現した傑作である。
(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説に一部修正)
本名清水忠三郎。天保11年(1840)2月清水佐兵衛の長男として、徳島市国府町南岩延に生まれた。屋号は福屋。大江忠二郎、横山忠二郎、清二郎ともいい、佐兵衛と共に和田に移り制作した。明治45年(1912)6月73歳で死去したが、天真爛漫、奇言奇行逸話に富んだ人で、仕事は気が散るからと言って、専ら夜中過ぎてから励んだという。 「頭を彫るには人相骨格を知らないと彫れるものではない」と、自分の人形頭には一つの見識を持っていた。また家の看板に「人相見料1円」「驚く者は入るべからず」と掲げて、人相も見ていた。晩年は能面や狂言面と共に、大黒や恵比須の像を彫り、あまり人形は作らなかったと言う。 人形忠が作った頭は、阿波や淡路の人形座にあるのは勿論、徳島県郷土文化会館にも4個、天理参考館に12個。贈答品にしたものも全国的に散在しており、県の有形文化財に14個の頭が指定されている。
天狗弁 作 傾世頭(タ霧) 14.5cm
本名吉岡要。明治13年(1880)12月、徳島市国府町の黒田家に生まれ、初代天狗久の長女しげりの養子となり、大正4年(1915)7月36歳で没した。若くして死亡したため、制作する期間が短かったばかりでなく、養父天狗久と共に制作し、要の作品に天狗久が手を加え、天狗久の名で世に出したと言われている。そのため天狗要の銘がある作品は少ない。 淡路の人形座で使っていた要の頭が、大阪市立博物館(現:大阪歴史博物館)に4個入っているが、そのほか2個程しか確認できていない。自分の個性を出し切れないまま早世したため、その作品はどことなく弱々しく寂しい感がする。