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◆笹木野春日神社 |
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笹木野は、17世紀中ごろに、京都の商人の三島泉斎(?〜1656)が、旧吉野川と今切川にはさまれた広大な萱野の干拓を行ったのが、村のはじまりと伝えられています。三島泉斎は干拓事業の途中に亡くなり、その後、手代の井上六郎右衛門と浅山瀬兵衛(朝山瀬平)が事業を引き継ぎましたが、最後は徳島藩の内外から土地を求めて移り住んだ入植者たちの努力によって面積144町(約144へクタール
/『板野郡村誌』)、石高548石余(『旧高旧領取調帳』)の新田村落「笹木野」が誕生したのでした。
笹木野村は大河に囲まれ、土地が低かったために、洪水・津波の被害をたびたび受けました。村人は、そのたびごとに堤防や田畑の復旧・修理の普請(土木工事)に努力しなければなりませんでした。
笹木野には、江戸時代の新田開発や近世・近代の民衆生活・文化を記録する古文書が、約3,700点も残されています。この古文書は、昭和49年(1974)に笹木野春日神社の勤番所(社務所)の押し入れの中から発見され、その一部は当時、執筆・編集中であった『松茂町誌』に史料として収録されています。平成5年(1993)の資料館開館後は、笹木野地区の歴史はもちろん、“ふるさと松茂”の歴史を証明する貴重史料として、資料館に保管して展示や研究が行われています。 |
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◆三島泉斎をまつる野神社 (笹木野春日神社境内) |
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三島泉斎は、17世紀はじめに活躍した京都の豪商で、屋号を永丸屋(栄丸屋・永願屋)と称しました。
伝承によれば、泉斎が有馬温泉へ湯治に出かけた際、大松村(現在の徳島市川内町)の富豪の近藤吉兵衛と知り合い、旧吉野川・今切川流域の萱野の新田開発を勧められました。泉斎は現地を見学し、新田としての将来性が豊かであると確信し、干拓による新田開発に取り掛かったのです。
干拓事業は、平石夷野(現在の徳島市川内町)に現地事務所を置き、笹木野・加賀須野・平石の3村390町(約390ヘクタール)の広大な萱野を新田とするものです。しかし、毎年くり返される洪水に、事業は困難をきわめました。
ついに泉斎は破産し、明暦2年(1656)に、事業の完成を見ないままに没し、平石の若宮神社境内に葬られました。のちのち、笹木野村をはじめ3村の新田開発事業を完成させた村人は、泉斎のことを忘れず、供養を続けています。 |
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