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住吉は江戸時代中ごろの寛政年間(18世紀末)に、土木技術者の伊沢亀三郎や、大坂(現在の大阪府)商人の鴻池清助によって新田開発されました。
はじめ笹木野新田とよんでいましたが、後に住吉新田と名をあらためました。住吉という地名は鴻池家の祭神であった大坂の住吉大社にちなんでいます。
伊沢亀三郎は、阿波郡伊沢村(現在の阿波市阿波町)の庄屋の次男に生まれ、青年時代に土木技術や治水論を学びました。徳島藩で随一の技術者となった亀三郎は、住吉をはじめ藩内各地の新田開発や堤防工事に活躍しました。 |
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◆『笹木野新田絵図』
(国文学研究資料館史料館所蔵「蜂須賀家文書」)
18世紀のもの。北は松茂町豊久から南は徳島市川内町小松までの広大な地域の新田開発が計画されている。 |
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◆『笹木野新田用水絵図』
(国文学研究資料館史料館所蔵「蜂須賀家文書」)
19世紀のもの。湿地・萱野を石垣でしめ切って干拓した様子がわかる。右下の集落は長原。 |
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◆伊沢亀三郎墓碑 (阿波市阿波町伊沢) |
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伊沢亀三郎は、阿波郡伊沢村(現在の阿波市阿波町)の組頭庄屋(大庄屋)伊沢十五左衛門の次男として、寛延3年(1750)に生まれました。独学で新田開発の技術(治水技術・干拓技術)を修得し、天明3年(1783)に宮島新田(現在の徳島市川内町)を干拓しました。さらに、亀三郎は、笹木野村の堤防工事を行い、笹木野新田(後の住吉新田)を干拓しました。その後も、鮎喰川堤防工事などの指揮をとった亀三郎は、徳島藩士に取り立てられ、普請裁判人(土木工事の現場責任者)や用水方(用水の管理者)を歴任しました。 |
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