江戸時代、松茂の新田村落では、旧吉野川から稲作などの農業に必要な用水を引いていました。そのため、海に近い河口域の村落では、日照り続きで川の水量が減ると、海の水が逆流して塩害がたびたび発生しました。
元禄年間(17世紀末)には、第拾村(現在の名西郡石井町)付近で吉野川の流路がかわり、別宮川(現在の本流「吉野川」)に多くの水が流れ、旧吉野川では極端な水不足となってしまいました。用水の水不足と塩害に困った広島浦・中喜来浦・笹木野村など下板地方の約40か村は、連名で徳島藩に別宮川の堰止めを願い出ました。
これによって、宝暦2年(1752)に、「第拾堰」(現在の第十堰)が築造されました。
下板地方では、村々の代表者が「井組」という組合をつくって、共同で「第拾堰」の維持・管理を行いました。
寛政年間(18世紀末)には、笹木野村庄屋の松尾源右衛門が「井組」の代表者を務め、利水の向上のために多くの提言を行っています。しかし、塩害を防ぐため用水をほしがる笹木野など河口域の村々と、洪水を防ぐための治水を優先する上流部の村々とでは、意見があわず争論になることもありました。また、「井組」の村人たちは、「第拾堰」の維持・管理費の捻出のため少なからぬ負担をおいました。 |