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矢印 その時歴史がちょっと動いた
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【番外編】
 
 
その時歴史がちょっと動いた【2】塩害と利水 -第拾堰と井組-
 
『村々沼川瑠留之図』
◆『村々沼川堰留之図』
(国文学研究資料館史料館所蔵「蜂須賀家文書」)
江戸時代中ごろの吉野川は、「第拾堰」付近を南から北
(旧吉野川)へ流れるのが本流でした。
松茂から、10キロメートル以上も離れた第拾村に、大きな堰を造るなんてすごいなぁ!

 江戸時代、松茂の新田村落では、旧吉野川から稲作などの農業に必要な用水を引いていました。そのため、海に近い河口域の村落では、日照り続きで川の水量が減ると、海の水が逆流して塩害がたびたび発生しました。

 元禄年間(17世紀末)には、第拾村(現在の名西郡石井町)付近で吉野川の流路がかわり、別宮川(現在の本流「吉野川」)に多くの水が流れ、旧吉野川では極端な水不足となってしまいました。用水の水不足と塩害に困った広島浦・中喜来浦・笹木野村など下板地方の約40か村は、連名で徳島藩に別宮川の堰止めを願い出ました。
 これによって、宝暦2年(1752)に、「第拾堰」(現在の第十堰)が築造されました。

 下板地方では、村々の代表者が「井組」という組合をつくって、共同で「第拾堰」の維持・管理を行いました。

 寛政年間(18世紀末)には、笹木野村庄屋の松尾源右衛門が「井組」の代表者を務め、利水の向上のために多くの提言を行っています。しかし、塩害を防ぐため用水をほしがる笹木野など河口域の村々と、洪水を防ぐための治水を優先する上流部の村々とでは、意見があわず争論になることもありました。また、「井組」の村人たちは、「第拾堰」の維持・管理費の捻出のため少なからぬ負担をおいました。

寛政期(18世紀)の庄屋松尾源右衛門の旧吉野川の治水・利水に関する意見書
◆寛政期(18世紀)の庄屋松尾源右衛門の旧吉野川の治水・利水に関する意見書
(笹木野春日神社文書)
松茂って水に恵まれていると思ったんのに・・・。塩水じゃあ、植物は育たないわね。
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