明治時代の松茂小学校の歴史に、「最後の殿様」であった蜂須賀茂韶が関係しているのを御存知ですか。
慶応4年(1868)1月、満21歳の若さで徳島藩第14代藩主に就任した蜂須賀茂韶は、明治4年(1871)の廃藩置県により、「殿様」(藩主・知藩事)の地位を退いて、東京に移り住みました。その後、明治新政府の高官となった茂韶は、主に外交分野で活躍し、明治16年(1883)にはフランス駐在の特命全権公使に任ぜられました。また、公使の職を離れて帰国した後は、実業家としても才能を発揮し、電力会社・紡績会社・損害保険会社の設立や、北海道での大農場経営などに取り組みました。
こうした折、蜂須賀茂韶と松茂との間に、大きな関わりができることになりました。明治21年(1888)、板野郡宮島浦(現在の徳島市)の坂東家が、豊岡新田(現在の松茂町豊岡)の土地所有権すべてと新田経営権の一切を、茂韶に売却したのです。「豊岡新田」は、松茂の南東部の低湿地にあり、用・排水の利便も悪く、治水・利水対策に多額の費用を必要とする農地でした。そのため茂韶は、明治25年(1892)に、防災対策として金3,335円を松茂村の堤防修復工事のために寄附しています。当時の3,335円は、村長の年収の約10倍、陸軍大将や政府高級官僚の年収に匹敵する大金でした。
明治29年(1896)には、豊岡新田を通学区とする松茂尋常小学校が校舎を新築することになったため、茂韶が金50円を寄附しました。海外生活が長く、近代国家における教育の重要性を熟知していた茂韶にとって、しごく当然の行為であったのでしょう。ちなみに同年9月には、茂韶の教育への深い造詣が認められて、第二次松方正義内閣の文部大臣に就任しています。
「最後の殿様」と松茂小学校、意外なところに縁があるものですね。 |