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矢印 その時歴史がちょっと動いた
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【番外編】
 
 
その時歴史がちょっと動いた【1】 松茂の検地と三木宗桂
 
阿波御国板野郡笹木野村御検地帳
◆阿波御国板野郡笹木野村御検地帳
文政3年(1820)作成 (笹木野春日神社文書)
 
検地帳には村内のすべての田畑の面積・石高(収穫高)・所有者が記され、年貢徴収の基本台帳であった。
検地帳には村内のすべての田畑の面積・石高(収穫高)・所有者が記され、年貢徴収の基本台帳であった。
江戸時代の検地
 徳島藩では、天正17年(1589)に太閤検地が行われ、つづいて慶長7年(1602)に大規模な追加検地が行われました。その後も、新しく田畑が開墾される度に、検地が行われました。農民にとって、検地が実施されることは、開発の成果を武士身分に取られてしまうことを意味しました。検地によって、農民の暮らしは苦しくなったのです。
 
中喜来の検地と三木宗桂
 江戸時代はじめ中喜来では、農民の暮らしをまもるため、庄屋の三木宗桂が、検地中止の願いを和歌に込め、それを藩主に献上する直訴がありました。
引く綱の強きは国のためならず民の憂いを世々に残して
 「測量用の綱を強く引くこと(厳しい検地を行うこと)は、(長い目で見ると)徳島藩のためにならない、民衆の不安・動揺を後世に残すからである」という意味です。

 中喜来の農民を代表した三木宗桂の主張は、藩主に聞き入れられました。しかし、検地を拒み藩主へ直訴を行うという行為は、封建時代の秩序を乱す大罪だったのです。宗桂は捕えられ、死刑になってしまいました。農民の暮らしを守るため、彼は命を投げ出して、検地反対を直訴したのでした。

 記録によると、その後、検地は行われましたが、中喜来の人々の間には、「命を投げ出した宗桂の一念により、検地においては藩主より多大の恩恵が与えられた」と伝えられています。今日でも、中喜来では、三木宗桂を村の「惣御先祖」と仰ぎ供養しているのです。
 
三木宗桂(左)と妻(右)の墓(呑海寺)
◆三木宗桂(左)と妻(右)の墓(呑海寺)
 
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